松重豊、「アウトレイジ」より「孤独のグルメ」の方が過酷?遅咲き俳優の事実

コワモテで、渋い演技に定評がある、俳優の松重豊(まつしげ ゆたか)さん。2012年から始まった連続ドラマ「孤独のグルメ」で初主演を務められ、大ブレイク!

プロフィール

松重 豊


生年月日:1963年1月19日(54歳)
出生地:福岡県三潴郡筑邦町(現 久留米市荒木町)
身長:188 cm
血液型:AB型
職業:俳優
ジャンル:舞台、テレビドラマ、映画
活動期間:1983年 –
配偶者:既婚
事務所:ザズウ

1982年4月に明治大学文学部に入学し演劇学を専攻した松重豊は、当初製作側を目指していましたが唐十郎主宰の「状況劇場」や寺山修司主宰の「天井桟敷」など数々の演劇を観て感動したことがきっかけで役者を志すようになったそうです。
大学を卒業した松重は、演出家・蜷川幸雄主宰の劇団「蜷川スタジオ」に入団。本格的に役者としてのキャリアをスタートさせました。

1989年に蜷川スタジオを退団。その後はフリーで国内外の舞台、テレビドラマ、映画、Vシネマ、CM、ナレーションなどに多数出演していました。

師匠である蜷川幸雄から「蜷川さんにたくさん罵倒されましたから、罵倒映画に出てもビクともしないですよ」と笑いながら話していました。

新聞のインタビューで蜷川幸雄との思い出を

”「だから、蜷川さんから『コノヤロウ!』と叱られてもうれしかった。だから、罵倒し合う映画に出てもビクともしないですよ。罵倒慣れしてますから」

しばらくして怒られなくなった。

「『なんで怒ってくれないんですか?』って聞くと『お前の芝居には怒る必要がねえ』って言われて。逆にちゃんとしなきゃと思いましたし、蜷川さんに見られるのは恐怖でもあり、励みでもありました。亡くなってしまいましたけど、これからもずっと視線を感じていくと思います」

蜷川さんがいつも言っていた言葉は「売れてる俳優になれ」。40歳を過ぎて師匠の願いは実現したが、揺るぎない地位を獲得したとは思っていない。

「日々、このままじゃマズいと模索しています。生き方の背筋も正して新しいものを見つけていかないと、すぐにダメになると思います。今回の作品で西田敏行さんと塩見三省さん(ともに69歳)がパワーアップしているのを見て、50代半ばの自分はもっと追い込まないとダメだな、とケツを叩かれました」”

物凄い役者魂です。

役者は一度辞めていた?

そんな松重豊も若いころは苦労をしていて、役者食べることができず一時期会社員をしていたそうです。

建設会社で現場作業員として勤めていたのですが、ある現場で事故に遭いました。
足場から転落して地面に落ちたそうですが、幸いにして後遺症などが残ることはなかったそうです。その時に役者に戻ってこいと声をかけたのが今の事務所の社長と蜷川幸雄スタジオで仲間だった勝村政信。二人の声に応える形で役者に復帰。

黒沢清監督のホラー映画『地獄の警備員』でタイトル役に抜擢される。元力士の殺人鬼という設定上からは松重は痩身すぎるが、撮影5日前になって松重の迫力を買って監督が英断。結果としてこれが松重豊の第一線俳優への道を開いていくことになりました。

「孤独のグルメ」は黒歴史?

松重豊の知名度を上げたのは「孤独のグルメ」です。最初にオファーを受けた時、「プロフィールの汚点になる」と思っていたと語っています。

”「原作も単なるオッサンが食べてるだけで、別に何か物語があるわけでもないし、事件が起こるわけでもないんで……」「“本当に淡々とやりますけど、いいんですか?”ってことで、“何もやらないですよ”っていうスタンスだった」”

これがヒットの理由だったのかな?と話し、撮影については

”「これは僕が主役でもなんでもなくて、出てくる料理が主役。料理がおいしくなければ成立しないドラマだと思っています。井之頭五郎という役に関してもバイプレイヤーとしての一つの仕事だと思っています」”

あくまでも自分は脇役だと思い、撮影に臨んでいました。でも、

”「最初にこの話をいただいた時に、『誰が観るの?』と思いました。おっさんが淡々と飯を食って、そこにモノローグが入っているだけで。テレビの前の皆さんがどのように楽しむのかよくわからなかった。今でも、まだわかっていないところがあって」”

”「気負うことは何にもないです。この間『オワコン』という言葉を知りまして、この番組にピッタリだと思って。お客さんが終わってもいいと思っても仕方ないくらいマンネリもマンネリで。どこへ向かえばいいんだろうという気持ち。でも、おいしいものは尽きることはないと思う。本当においしいものをどこまで見つけることができるのか。冒険の旅が始まったなと思っています」”

意気込みを語りました。でも、「孤独のグルメ」では、リアルな表情を出すため
撮影前日の飲み会は断り、完全空腹状態にして撮影に臨むそうで、「アウトレイジ」よりも辛いそうです。

30年来の友はあのアーティスト

ご存知の方も多いでしょうが、松重豊と30年来の友達がいます。その人は


クロマニヨンズの甲本ヒロト!松重豊のブログには

”大学入ってすぐ、下北沢のみん亭というラーメン屋で働いてたのよ、

その当時、いまから25年くらい前、”

行列のできるラーメン屋のはしりだね、忙しかったさぁ、

その賄いで三食中華、毎日中華、飽きないのよ。

その頃190cmの大台突破してた、身長のはなし、

んで日払いだし、そんまま下北の町に繰り出して、

たっぷり蓄えた熱量、完全放出してた。

すみません、当時迷惑おかけした方。申し訳ない。

おかげでねぇ、僕は餃子まくのが得意です。今でも。

みん亭のバイト、同じ日に始めたバンドマンがひとり。

25年前の甲本ヒロト。”

と綴ってあり、松重豊に送った手紙が話題になりました。

”松重豊くんへ
上京して下北沢で同じ中華料理屋でバイトに入った日が一緒で、
10代の僕らが仲良くなるのに 時間は必要ありませんでした。 僕はバンド、豊は芝居の道を 歩き始めたばっかりでした
そこからバンドと芝居とお互いの夢を語り合ってた日がずっとあったね!
今も俺はバンド、豊くんは芝居…お互い夢をこれからも続けていこう!
あの頃の下北沢の 永遠に続くかのような時間は 今というこの場所に つながっているのだろうか。 こうやって豊に手紙を書いている事も 同じ物語のワンシーンなのだろうか。
そしてあの時のあの場所が スタートだったとしたら ゴールはどこなんだろうか。 30年たった今も僕はバンド、 豊は芝居に明け暮れています。 そう、ちっとも変わっていません。 これからもずっと変わりそうにありません。
もしかしたら、あの時僕らは すでに夢を叶えていたんじゃないだろうか。そう思ったらとても 会いたくなりました。 飲みましょう。
その時は、 この手紙をからかって笑いましょう。

甲本ヒロトより
追伸 おいしそうに食べる様子は あの頃のまんまです。”

手紙を受け取った松重豊はブログに

” 旧友からの手紙。

30年前からずっと繋がってる。

んじゃあと30年繋がってみるか。

互い五十にして天命を知る。”

松重豊がパーソナリティを務めるラジオに甲本ヒロトがゲストで出演して、当時の思い出を話していました。今でも良い関係が続いているみたいです。

役者魂を忘れずに今でも活躍してる松重豊は、これからもきっとどこかで役者をやり続けるのでしょう。






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