島田洋七はたけしと妻に支えられた人生をしくじり先生で告白!

島田洋七は、たけしと妻に支えられた人生をしくじり先生で告白

『B&B』の島田洋七さんといえばマシンガントークで漫才ブームを牽引していましたが、『しくじり先生』(テレビ朝日系)に登場して、事務所の移籍が4回、コンビ解消が6回、副業失敗に参議院選挙落選と、しくじりの人生を面白おかしく伝えてくれました。

島田洋七プロフィール

本名:徳永 昭広(とくなが あきひろ)

生年月日:1950/02/10

血液型:O型

身長:164cm

出身地広島県白島九軒町

職種:タレント・俳優・文化人

事務所 :オスカープロモーション

1975年:3人目の相方島田洋八とコンビB&Bを結成。

1980年「第8回日本放送演芸大賞最優秀ホープ賞」を受賞するなど数々の賞を受賞した。

ギャグの「もみじまんじゅう」は一世風靡して、あまりメジャーでなかったもみじまんじゅうを一躍広島名物に押し上げました。

2007年に祖母との思い出を語った本「佐賀のがばいばあちゃん」が600万部のベストセラーになります。

映画やドラマにもなって、日本だけでなく韓国、台湾、マレーシアなどでも出版されています。

ビートたけしさんとの硬い絆

https://twitter.com/RYTHEMFRIEND/status/883442122065682432

デビュー当時、島田洋七さんは、吉本興業に所属していて、1972年に『B&B』を結成します。

80年代に入ると空前の漫才ブームが起こり、ビートたけしのツービートと並び島田洋七さんのB&Bが漫才ブームの中心でした。

お笑い界の頂点に立った洋七さんは、たけしさんと気が合って、相方ではなく2人でコンビを組んで営業のアルバイトをしていたといいます。当時の2人の営業のギャラは1日700万円ともいわれています。

そんな漫才ブームの中、たけしさんは“フライデー襲撃事件”を起こしてしまい逮捕されます。その後、芸能活動を謹慎して、マスコミの目が届かないように石垣島に身を隠します。

洋七さんはまだ多忙でしたが、売れる前からの友達だから、一人じゃ寂しいだろうと忙しい中時間を作って石垣島に会いに行っていたと言います。芸能界を辞めたいと弱音を吐くこともあったたけしさんを励ましていたと言います。

洋七さん以外は、誰一人たけしさんに会いに行かなかったそうです。

たけしさんは島田洋七さんにとても感謝していて、2人の友情はさらに深まったと言います。

2人の間にそんなエピソードがあり、硬い絆がある事は知りませんでした。

島田洋七のジェットコースター人生

島田洋七さんは、しくじり先生で、人の話を聞かずに思いつきで行動して何度も同じ失敗を繰り返した事がジェットコースター人生の始まりと言っています。

漫才ブームで、島田洋七さんのB&Bの島田も大ブレイクします。

当時は、19本ものレギュラー番組を持っていた為に、移動はヘリコプターを使っていて、超多忙なスケジュールをこなしていたといいます。

しかし、いつまでも漫才ブームは続きません。

ダウンタウンを筆頭に、とんねるずやウッチャンナンチャンのような第三世代のお笑いが主流になってくると、洋七さんのようなスピード漫才は必要がなくなりました。

さんまさんや紳助さんは、舞台とテレビの両方をこなしながら、テレビやラジオのバラエティーのMCやトーク番組中心のエンターティナーの仕事に徐々にシフトしていました。

謹慎していたたけしさんも復帰を果たします。

お笑いだけではなく映画監督としても活躍するようになります。

そんな時、洋七さんは、仕事が激減したため副業に手を出すようになります。

最初は埼玉県の所沢でラーメン店を開業しますが失敗に終わります。

その後も温泉民宿を始めようとしますが、温泉が出ずにだまされて失敗します。

その後、たけしさんとさんまさんに反対されながらも、六本木に「ゲイ(芸)バー」をオープンしますが、全く上手くいかず多額の借金を背負ってしまいます。

そんな時に『佐賀のがばいばあちゃん』が600万部という空前の大ヒットになって、すぐにドラマや映画化されます。

講演会で全国を飛び回っていましたが、テレビ局からは一切オファーはなかったと言います。

洋七さんは、この頃、印税や給料の面で吉本と揉めて、契約更新をしていません。

事実上追放された形で、吉本を敵に回した感じになり、仕事が全くない状態でした。

政治家への転身を試みますが、あっけなく落選します。

ジェットコースター人生を支えた妻

島田洋七さんは、広島の広陵高校に野球の推薦で進学して、広島工業大学院に進学します。しかし、中退して佐賀に帰ります。

島田洋七さんが19歳の時に、現在の奥さん律子さんに出会います。

20歳の時に歌手になりたくて、駆け落ちして上京しますが、すぐにお金がなくなり、高校の先輩に誘われて大阪に移ります。

うめだ花月で中田ハウス・ボタン師匠の漫才見て、歌手を諦め芸人を目指します。

その時の生活は、冷蔵庫にはマヨネーズとケチャップしかなかっり、八百屋でもらった野菜の芯やパン屋でもらったパンの耳などで食いつないだ貧困生活で、8年続いたといいます。

漫才ブームに火がついて、1980年には年収が8億円になったといいます。

その時に実家や自宅を立て替えたりしてかなり派手に使い込みます。

しかし、翌年税金5億円が払えなくなり、数年かけて支払ったといいます。

漫才ブームが下火になり、いろんなことに手を出して、借金だけが残り、自殺を考えた時、いつもそばにいて洋七さんを支えてくれたのが、妻の律子さんと言います。

洋七さんを検索すると再婚とか元妻とか謝罪とか15最年下とか出てきますが、元相方の洋八さんの事のようで、洋七さんは現在も夫婦仲良く、今は、律子さんの親の介護の為に佐賀に住んで自然豊かな場所で農業をしてのんぴり暮らしていると言います。

たけしさんでさえ、洋七の妻の前ではあまり偉そうな事が言えなかったと言います。

律子さんはかなりがばい妻のようですね。

まとめ

島田洋七さんは、ビートたけしという親友と律子さんという妻が常にそばにいたから、ジェットコースター人生でも乗り越えてこれたようですね。






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